昭和46年06月14日 朝の御理解



 御理解 第12節
 「神に会おうと思えば、にわの口を外へ出て見よ。空が神、下が神。」

 説明を聞かせて頂きますと、成る程天地そのものを金光教では神様として拝んでいるのだなあと言う事を、これは信心のない人でも説明すると分かるだろうし、また私共もそれを分かる事ができます。昨日も十三日会で桜井先生がお話になっとりましたが、本当に家庭問題の深刻なお話をして居られましたが、色々言うて聞かせて分からせて、そこに分かった所に、そうだなあ兄さんと言うて、まあ納得が行かれたとこう言う。
 奥さんの弟さんの事でございましたがね、段々お話をして行かれたら成る程そうだなあと、そしてもうその翌日にはそれこそ、親でもバラしてしまうぞと言う様な見幕であった弟さんが、翌日はその親に少ないけれどもと言うて、お小遣いを上げられると言った具合に変わって行っとられる様子を、お話の中に聞かせて頂きまして、本当に成る程そこに神様を感じる訳ですね。もう例えば親でも腹が立ったら親殺しと言うかね。
 親を殺し兼ねないような、それこそ悪魔のような心があるかと思うと、分かる所が分からせて頂きますと、その親に無い中から両親にお金を五千円宛上げられたと言う話でした。懇々と前の日はそれこそ激しく、又は優しく本当に心から弟の手を握って、「どうぞいっちょここが分かって呉れ」と頼むようにして話された。お話をされたのでそうじゃなあ兄さん、と言うて分かられた。成る程我が心に神がござると仰しゃるが、我が心に神がござるように、人の心にも矢張り神がござると言う事が分かります。
 まあそういう風に弟が変わっておかげを頂いた事を、もうそれこそ有り難い思いで晴々しい心で、こちらへ参って居りましたら、道々電車の中から眺めさして頂く一木一草ですね、を見せて頂いても感動すると言うことでした。そこに神様の姿を見、神様の働きを感じて、何か訳は分からんけれども有り難うして有り難うしてと言うて、自分の心の中からどこから湧いて来るか分からん有り難い心を以てみる時に、その一木一草までが有り難い神様の姿に見え、また神様の働きが感じとらせて頂く事が出来る。
 これはね理屈の上でですよ、金光教では天地を拝むんだと、天地そのものが神様だと、まあそれと働きを合わせて説きましても、説きますれば分かるです。はあ成る程としかも大天地に対するところの私どもは氏子であり小天地だから、私共の中にも内在した神があると言うこと。我が心に神がござるからおかげになると言う、我が心の神をそこに見る事が出来ると同時に、私は今日は外へ出て見ると言う事、表へ出て見ると言う事、表に出て見るとそこに本当の神様を見、又は聞かして貰える。
 感じとらせて貰える。おかげを頂いたら、人間関係すべての事に素晴らしい、有り難い事になるだろうなあと、今日改めて思わせて頂くのでございます。我が心の中にも神がござるならば、人の相手の心の中にも神がござる。その我が心の内に内在しておる神様がフルに表れて見えるとき、この人を助けずにおかん、どうでもこの人に分かって貰わなければ置かんとするその神心ですね。もう利害関係と言ったものは抜きにして、人が助かって貰わにゃと言う神心がです、すぐ親でもバラしてしまう。
 何という言い方かと、親に対してそういう恐ろしい事を言うてと、その恐ろしい事を言う人の心の中に、やはりその人の心の中にも神がある。その神が段々、段々お話をして居られる内に、成る程兄さんそうじゃなあと分かった。それから家に帰られて又いろいろと分かられた。そこから無けなしの金を銀行から出して来て、これはお母さん、これはお父さんと言うて、五千円宛の小遣いを上げられたという話。
 相手の言わばそれこそ親も殺し兼ねないような恐ろしい事を思うておる人間の心の奥に、そういう神心があった、成る程自分の心の中にだけ神がござるのじゃなくて、人の心にも神がござるという見地に立たして貰うとき、私は人間関係がスムーズに行くと思う。その為にはね、私自身が有り難うなっとかなければね、私の心の中の親様が素直にああそうだ、そうだと、頂かせて貰えれる心の状態、いわゆる吾が心の神が、そこに神が働きをなされる程しのおかげを頂かなければいけん。
 結局人ではありません、自分自身の心が拝めれるようになると、相手のその人も拝めるようになると言う事です。しかも相手は仏様のような人、神様のような人でなくても、親殺しをし兼ねないような人でも拝めると言う事なんです。そこに初めて人間氏子の心の中に神を見る。外へ出てみよ、空が神、下が神と仰せられる。そういう成る程事訳を聞かして頂きますと、天が神か、地が神か、その働きを分からせて頂くと、成る程それが神様の働きじゃろうかと分かるのですけども、分かっただけじゃいかん。
 どこから湧いて来るか分からんけれども有り難うして、有り難うしてと言うところに、そこに一木一草を見せて頂いても感動する心が湧いて来ると言う我が心が、神の眼を以て神の働きを働きとしてそこに見る事ができる。それが難しいと言われる人間関係の上にもです、そういう見方が出来ると言うことは何と言うても我が心の神が生々と、神様の働きを心の中に頂かなければ、いわゆる我と我が心が拝めると言う心、相手が拝めん時には、自分自身が浅ましい時なんだ。
 自分自身が拝めない時には絶対庭に出て見れば空が神、下が神という実感、しかも天地の働きを、そこに神の働きとして頂くことが出来る。只ここんところをね、お道の信心の神観と申しますかね、金光教では天地金乃神、天地をそのまま神様として拝むんだ、と言う説明だけでこの御理解があったとするなら値打ちはありませんよね。本当に外に出て見たら、本当に天地をそのまま神として頂ける事がね値打ちなのです。
 そこには暑かろうが寒かろうが、降ろうが照ろうがそれを神の働きとして甘受する心、それを受ける心が有り難いと感ぜられる心が、心の中にあるからです。そこに神は神としての働き、神の姿をそこに見ることが出来る。昨夜私、文男先生が案内で去年から、それこそ家例になってしまった様なことですけど、私も近所に居ってから初めて去年知った訳でございますけど、大川の向こうに、橋を渡るともう佐賀県です。そこんところに筑後川を前にした、まあ田舎にしたら立派な料亭があります。
 そこでえつ料理を食べさせてくれる。それが今が丁度「シユン」ほんの僅かの間しかない。昨年も丁度、去年は今月の三十日に行ったそうです。私は昨日十三日とばっかり思うておった、ところが三十日だった。それで丁度一年振りにまいりました。昨年に同じものですけども、それはもう成る程美味しい、川魚の嫌いな私でも、もうそれこそえつを以て料理した、もうお刺身から洗いから、煮付けから焼き物から、そのえつの子ですね、のものからもうお吸い物から、天麩羅からもうえつを以て全部料理する。
 それが実に見事、見事な料理であると同時に美味しいです。そういう所へ昨日まいりました。ああ丁度一年振りに来たなあと言うて、あそこで頂き掛かっておりましたら、仲居さんがやって参りましたので、丁度一年振りに私が来たと申しましたら、昨年の冬ですから未だ半年余りです、半年前辺りお見えになりましたね、と私に言うのですよ。けれども私は何の事を言いよるか分からなかった。
 奥様と一緒にお見えたじゃないですかと言うのですよ、ですから私は、ははあこの人は勘違いしとるなあと思ったけれども、興にのって言ってますから、ああそげな事いったら「バレル」じゃないのと言ったものだから、私によく似た人が夫婦で行ったんでしょうね。そしてここから鹿児島に行くとか、熊本に行くとか、言うて仰しやっとったじゃないですかと言う訳なのです。それで私はそれを聞かせて頂きながらですね、まあ私が実際家内とああいう所まで、もうえつもないでしょうね十二月の頃ですから。
 まあ、あちらに寄ったと言う訳なんでしょうけれども、まあ見違いをした訳です。けれども私はもう、それになり済まさせて頂いとったんです。いや僕じゃないよと、君それは見間違えしとる、僕は去年の今月こげな風にしてこの連中と来た事があるけれど、と言うたらもう座が白けますよね。そこにね例えば、ああ言う仲居さん達のプライドとでも申しましょうか、お客さんを覚えて居ったと言うことなんです。
 これは覚えて居られる事も楽しいですけども、覚えて居ったと言うことは一っのプライドですよね仲居さんの、で私がその人達夫婦になり済ましたものですから、向こうでもやはり自分は覚えとったと言う風にまあ思われる。そこに私は神を見ましたね昨日は。成る程、外に出て見ませんと神には会われません。言わば満足そうなその態度、その顔そこに私は神をみます。帰りに冷たいものでも頂きましょうと言うので、そこの久富さんの所ですね、耳納ドライブインに寄せて貰うた。
 私ども一緒の者がポカツと寄らせて頂いたものですから、久富さんもう吃驚してしまってからね、まーつと言う訳でそれこそ、言うなら「ておざお」して居られるのが手に取るように感じられるのである。そこに私は神を見ましたね。もうここに造りつけである神とかね、もう親先生が見えるからチヤンとしとかにゃいかんと言うのではなくてです、咄嗟の中にそこに私は神を見る感じが致しました。丁度私どもがテーブルに掛けさせて頂いた。そこへ善導寺の竹内さんですね。
 市会議員の、がお友達と一緒に飲んどられました。それが私を見たもんですから、はーもう御無礼して済みません、これはもう実感だったでしょう、それはもう、あの人と会うたならばこう言おう、ああ言おうではなくて、本当に済みませんでしたと言うそこにね、私は神をみました。外に出て見なければ神を見る事が出来ない、外に出て神に会うことが出来る。それもです私の心に内在しておる神が、神としての働きをして居るからそれが神に見えるのです。
 いえ、お前が見違えとるとたい、俺は夫婦でこげんところに飲みに来たりなどしたりはせんよと言うたら、もうそこに言わば神様は崩れてしまいなさる。私どもの心の中にも神が在るように、誰の心の中にも神が在る。その神を場合には引き出して上げる、これが信心。場合にはその人の素晴らしいところを見る、それは相手の心の神を見る訳なのである。それを相手の浅ましいところばかりを見る、それはどこから眺めて居るかと言うと、自分の心の浅ましいところから眺めているからであります。
 向かえの嫁さんは「びったれ」じゃなあと、もう本当に障子ども張り替えればよかとに、と言うて向かえの嫁さんが言ったと、まあ障子張る暇もなかったんでしょう向かえは、向かえが障子張る、その破れておるとば、ならどこから見よったかと言うと、自分方の障子の破れから見よったと、笑い話のようですけども、私どもは日々そういう状態じゃなかろうか。あの人は意地が悪いあの人は根性が悪い、あれはもう碌な奴じゃなか、自分の意地が悪い、根性が悪い碌な奴じゃない、そこから眺めるからなのです。
 相手の神を見るだんじゃなか、相手の浅ましいところを見ておる、その心の底に神があるのである。神に会おうと思えば、自分自身の心の中の神を探さなければいかに外に出て見たとて、天地を仰いで見たとて、ああこれが神かと言うだけである。神様に対して敬虔な思いも真心も出ようがない。それでは、私どもの夫々の生活の現場に於いてです、そこに神を見、そこに神の声を聞かせて頂けれる。そういう態勢こそ、先ず整えることに精進させて貰うことでなければいけないと思う。
 昨日、久留米の佐田さんがお屆けをしておられる。言えば断片的なお屆けでしたが、主人が申します、こういう梅雨の内だけれども、それこそ倉庫という倉庫はもう品物がいっぱい、しかもちゃんと積んどるのではなくて、ずうっとそれが回転しておる。もう主人が帰って参ります時には、もう貴方がなさらんでんと言う位だけれども、医者からはあんたばさらか力ば入れちゃいかんと言われますけれども、これ程の健康のおかげ頂いて有り難い有り難い、沢山の使用人は居るけれども。
 自分がそうさして頂かねば居られないようなもの、しかもその幾つもの倉庫の中に品物がいっぱいストックしとくと言うのではなくて、それがずうっと変わっておる。業界の人達がですね、只たまがりなさるばっかりだそうです。そしてこういう梅雨の中でも、乾物ですけん濡れてはいけない、それこそ、その合間合間には整理が出来ていく、これはもう何ともかとも言えん。
 周囲のものは誰も気がつかん、一緒に働きよる方達は何だけれども、その中心である佐田さんは、何という素晴らしい神様の働きの中に、こうしたお繰合わせ頂けるじゃろうかと、仕入れさせて頂くことも、売らせて頂く事も、これだけの品物が毎日ぐるぐるぐる出たらもう入って来ておる、小さな倉庫だけれども。それこそ或る外の大きな食料品の大きな問屋さんところに、大きな倉庫いくつも持っておるけれども、もう倉庫を潰さんならんと言いよる、しかも入ったきり品物が動かん。
 佐田さんどうかして下さいと頼みがある位。それに自分のところだけは、どうしてこういうおかげ頂いておるだろうか、とにかくお前が、俺が一生懸命やりよるところば一ぺん見に来てくれと、それはきちっと神ながらの中にお繰合わせ受けて居ることは、もう本当に神様がね一人一人の上に、神様がおかげを下さってある。時間的な上にも、例えば降る照るの事に於いても、神様がこげんも間違いのない働いてござるとが、来て見れば分かるち、と言われたと言うお屆けを奥さんがしとられました。
 もうそこにもここにも、神様の働きを感じとられる訳であります。そこでですそういう、そこにもここにも神様の働きを感じれれる程しの、成る程天地が神様じゃなあ、成る程神様が自分のおかげをやろうと思われる氏子には、降る照るの事まで、自由自在に働いてあってる事を実感せずには居るれない。そこでならばです、そういうおかげを受けておられる佐田さんの信心を思うて見ればそこに分かる訳です。
 成る程ああ言う信心からなら、そういうおかげが生まれて来るだろうと、いつも神様との対決というかね、神様をそこに見、神様の声をそこに聞いとられると言うおかげである。佐田さんの心の中に内在しておる神が、フルに神様としての働きを何時もしておる訳なのです。まあ例えて申しますとですよ、そげん言うと佐田さんは生神様のような感じじゃけれども、分かりよく言うならです、我が内なる神がですフルに働いとる、だから周囲が神にも見える、また神の働きがそこに感じとらして頂くことが出来る。
 万事万端の上に御都合お繰合わせと言うのがです、そのまま神の働きとして感じとらせて頂く事ができる。我神の子としての自覚、そこに神の氏子としての自覚の目覚めとでも申しましょうか、それを私は信心だと思う。我が心の神が神としての目を覚まされる。そこから生きた天地をそのまま神様と頂くことの出来れる、言わばおかげにつながる神様として頂けれるおかげを受けられる。
 そういうおかげを頂いて初めてです、神に会おうと思えば庭の口を外へ出て見よ、空が神下が神、一歩外へ出た時に、本当に天地に柏手せねば居られない、拝まなければ居られないものが生まれて来るのじゃないかと思います。そして私どもの周囲にです、いわゆる表に出て見よ、内の中では有り難いけれども、教会では有り難いけれども、一歩外へ出ると有り難くないと言うのではなくてです、一歩外へ出て見る、そこに神を見る、私は稽古をしとかにゃいけんと思う。
 そこに神の声を聞く稽古をしとかにゃいけんとこう思う。それは何と言うても我が心の中にござる神様が、神様としての目覚めをなさらなければ、周囲のいかに神の姿、神の働きがあっても、それを姿とも働きとも見えずに、まあどうした向かえの嫁さんは「びったれ」じゃろうかと言う事になって来る。自分自身のびったれた事は分からない。どうしてあの人はあげん意地が悪いじゃろうかと、自分自身の意地の悪い事は分からない。自分の意地の悪い心で見ておるから相手の意地が悪いのである。
 私どもはもうややもすると、私どもの周囲に根性の悪い人やら意地の悪い人ばっかりである、であります。実際問題としてそういう時に、私ども心の中の、我が心の中の神様を、本当に自分自身が自分自身の心を未だ拝み得てないと悟らして貰うて、いよいよ信心の焦点を狂わないようにそこんところに焦点を於いて、本当に周囲のすべてが合掌して受けられるおかげ、そういう日々でありたいと思いますね。
   どうぞ。